2008年8月31日日曜日

NHKハイビジョン特集「兵士たちの悪夢」……よかった!

この番組、考えさせられた:
ハイビジョン特集 - Yahoo!テレビ.Gガイド [テレビ番組表]: "ハイビジョン特集「兵士たちの悪夢」 イラク帰還兵に広がるPTSD(心的外傷後ストレス障害)。兵士の心に何が起きているのか。第一次大戦以降の「軍事心理学」の研究史をひもときながら、その闇に迫る。"

兵隊にいかに抵抗なく人を殺させるかが各国軍隊の訓練の課題だった。その結果生じたストレス障害も、いかに早く治療してまた兵隊を戦線に戻すかが新たな課題になっている。人間操縦技術の進歩は日進月歩だ。

これについては、戦前の帝国陸軍も、戦後のアメリカ海兵隊も、第一次大戦時のフランス陸軍も、やってきたことはみな同じ。兵隊とは国家権力(ナショナリズム)のロボットに近づけば近づくほどいい兵隊さんになるとと言うこと。哀れである。

ナショナリズムで人間は二つの階級に分かれる。大衆にナショナリズムを煽ることで得する階級と、その結果犠牲になる階級である。自分は得する階級に属すると確信できなければ、特定既得権集団の票で成り立つ国家権力とその御用マスコミが煽る「ナショナリズム(ニッポンイズム)」から距離を置くのが得策である。

農業水産問題などでは脊髄反応的ナショナリスティックな感情ではなく自分個人としての経済的損得を深く考えてみる必要がある。自分が損をするに拘わらずお上やマスコミに扇動されてニッポンイズムに舞い上がっている人は、訓練プログラムで洗脳されてしまった兵隊さん達と何ら変わりはない。単なるアホである。

山梨の林道事典……これは参考になる!

いいサイトを見つけた。
山梨の林道事典: "山梨の林道事典 ~どこまでも行こう林道の旅~"

情報量がすごい。地図、評価、分岐点の写真などなど。

歳とったから山歩きは無理だけれど、せめてジムニーで林道散策を楽しもうか。

8/31 Today ボードレール死去(1867)

ボードレール (Charles-Pierre Baudelaire) が死んだ日。脳溢血のため失語症となっていた。行年47。
シャルル・ボードレール - Wikipedia: "シャルル・ピエール・ボードレール(Charles Pierre Baudelaire, 1821年4月9日 - 1867年8月31日)はフランスの批評家、詩人。「フランス近代詩の父」と呼ばれる。"
永井荷風がボードレールの詩をいくつか訳している。とても格調高い日本語。日本語のうまい人は翻訳もうまいのである。


荷風訳と原詩の対比は以下の通り:

Letter from Yochomachi: 珊瑚集:月の悲しみ シャアル・ボオドレエル


Letter from Yochomachi: 珊瑚集:腐肉 シ ヤアル・ボオドレヱル


Kafu Sangoshu 暗黒 シャアル・ボオドレヱル

Letter from Yochomachi: 珊瑚集:仇敵 シヤアル・ボオドレヱル


Letter from Yochomachi: 珊瑚集:「秋の歌」シャルル・ボードレール



2008年8月30日土曜日

北富士演習場は4600Haの大自然

北富士演習場の概要 北富士演習場は、陸上自衛隊の演習場として各種の部隊訓練及び小銃、機関銃、迫撃砲、戦車砲、榴弾砲その他の火器、火砲の実弾射撃訓練に使用されています。演習場の使用条件は国と地元との間で締結している使用協定(5年ごとに更新)により定められています。また、日米地位協定2-4-(b)施設として米軍の使用も認められていますが、使用条件は自衛隊が使用する場合と同一の条件とされています。
 平成9年度からは、米軍第3海兵隊による沖縄県道104号線越え実弾射撃訓練の分散・実施訓練が行われています。また、平成12年3月には北富士駐屯地に富士訓練センターが設置され、同センターが所管する訓練も行われています。
 演習場内国有地については、旧来からの入会慣行を尊重し、地元関係者に対して期間を定めて演習場内への立ち入りが認められています。

地元の人たちには開放されているのだ。ただ毎日というわけじゃない。詳細↓

地元関係者が生業のため、平成20年度内に北富士演習場へ立入れる日は下記の予定です。

おいらも地元に村民税を納めているし、クルマは地元ナンバーだし、山菜で飢えを凌がなければ飢え死にする境遇だし、入らせてもらえるかな〜。

8/30 Today マッカーサー厚木に到着 (1945)

ダグラス・マッカーサー - Wikipedia: "マッカーサーは1945年8月30日に専用機バターン号で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着、以後1951年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。"

現代のニッポンの根幹はマッカーサーによって作られた。「民主的」な農地解放や、土地私権の絶対性、「平和憲法」などなど。マッカーサーとしては、これら「民主的改革」は共産主義の脅威と対抗するための「必要悪」みたいなもので(特に農地解放は農民を共産党に行かせないために農業生産性を犠牲にして行った前代未聞のバラマキだった)、平和な時代になったらニッポン人が自分で時代に即した制度改革をするだろうと思っていたのだろうが、いったん国民(農民)に権利を与えるとそれが既得権化するのである。ニッポンはいまだにマッカーサーが残した負の遺産に苦しんでいる。

マッカーサーが日本に何を残したのか、マッカーサーの改革とその評価について当時4歳半だった人が書いておられるものがあり、これが秀逸。戦後の日本人は大なり小なり「マッカーサーの子供たち」でもあった。白象さんのページ。↓

マッカーサーによる「上からの改革」
http://www2u.biglobe.ne.jp/~hakuzou/MacArthur.htm


マッカーサーが日本にいたのはわずか6年足らず。すぐにいなくなったわけで、今の世の混乱は、マッカーサーではなく、やっぱり後を引き継いだ人たちが責任を負うべきだと思う。

2008年8月29日金曜日

8/29 Today 廃藩置県 (1871)

廃藩置県とは:
廃藩置県 - Wikipedia: "廃藩置県(はいはんちけん)は、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して、地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。"
「廃藩置県は平安時代後期以来続いてきた特定の領主がその領地・所領を支配するという土地支配のあり方を根本的に否定・変革するものであり、『明治維新における最大の改革』であったと言えるものであった。」とされるが、同時に大規模な「徳政令」という性格も有していた。

すなわち:
既に江戸時代中期頃から各藩ともに深刻な財政難を抱えており、大坂などの有力商人からいわゆる「大名貸」を受けたり、領民から御用金を徴収するなどして辛うじて凌いでいた。

廃藩置県によって、旧藩の債務は旧藩主家からは切り離されて新政府が一括処理することとなったが、その届出額は当時の歳入の倍に相当する7413万円(=両)にも達して(しかもこの金額には後述の理由で天保年間(1830年~1843年)以前に発生した債務の大半が含まれていないものと考えられている)おり、債務を引き受けた新政府にも財政的な余裕はなかった。

そこで、新政府は旧藩の債務を三種類に分割した。即ち、明治元年(1868年、慶応4年)以後の債務については、公債を交付し、その元金を3年間据え置いた上で年4%の利息を付けて25年賦にて新政府が責任をもって返済する(新公債)、弘化年間(1844年~1847年)以後の債務は無利息公債を交付して50年賦で返済する(旧公債)、そして天保年間以前の債務については一切これを継承せずに無効とする(事実上の徳政令)、というものであった。
(なお、新政府は朝敵となった江戸幕府による債務はその発生時期を問わずに一切の債務引受を拒絶したため、別枠処理された外国債分を除いて全て無効とされた)

その後、届出額の半数以上が天保年間以前の債務に由来するまたは幕府債務として無効を宣言されて総額で3486万円(うち、新公債1282万円、旧公債1122万円、少額債務などを理由に現金支払等で処理されたものが1082万円)が新政府の名によって返済されることになった(藩債処分)。

だが、債務の大半、特に大名貸の大半が、天保以前からの債務が繰り延べられて来た物であり、有名な薩摩藩の調所広郷による「250年分割」などが尽く無効とされたのである。貸し手の商人達から見れば、大名貸は一種の不良債権であり、返って来る見込みは薄くても、名目上は資産として認められ、また社会的な地位ともなりえたが、この処分によってその全てが貸し倒れ状態になり、商人の中にはそのまま破産に追い込まれる者も続出した。特にこうした商人が続出した大阪(大坂から改称)は経済的に大打撃を受けて、日本経済の中心的地位から転落する最大の要因の一つとなったのである。

旧藩主やその家臣は、これらの債務に関してその全てを免責された上、その中には直前に藩札を増刷して債務として届け出て私腹を肥やした者もいたと言われている。

江戸時代は世界有数の経済都市であった大阪の地盤沈下が著しい。室町時代から繰り返し繰り返し「徳政令」の犠牲になり続けてきたのだから、当然とも言える。平成のニッポンのお上は、もう関西からは搾り取るものがなくなったというので、今度は東京に目を付けている。あいつらは昔からなにも変わっていないのだ。

こういうことで、日本経済は落ち目まっしぐらなのである。

2008年8月28日木曜日

8/28 Today 大伴家持死す (785)

大伴家持 - Wikipedia: "大伴 家持(おおとも の やかもち、養老2年(718年)頃 - 延暦4年8月28日(785年10月5日))は奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。長歌・短歌など合計473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。『万葉集』卷十七~二十は、私家集の観もある。"


名門大伴家の家長で教養人、万葉集の編者でもあるが、晩年は不遇であった。最後の役職は陸奥按察使・持節征東将軍、鎮守府将軍であるが、名門大伴家としては まあまあというところ。藤原一族にいびりまくられた。死んだのは多賀城であったのか都であったのかも不詳。でも歌人としての大伴家持は、それよりずっと以前、天平宝字2年(758年)に死んでいた。その年正月の家持最後の歌:
新(あらた)しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)

「いいことが起こればいいなあ」という家持の切々たる思いが伝わってくる。万葉集の最後を飾る歌でもある。

2008年8月27日水曜日

8/27 Today 白村江の戦い (663)

白村江の戦い(663): "天智天皇2年(663)8月27日、日本と百済(くだら,baeg-je)の連合軍は朝鮮半島の白村江(はくすきのえ,baeg-chon-gang)で唐(とう,tang)と新羅(しらぎ,sil-la)の連合軍に歴史的な大敗を喫しました。"




百済を助けるためとして半島に侵攻した日本水軍は、この日、待ちかまえていた唐の水軍と戦いの火蓋を切った。結果は惨敗。昔からあんなところに行くとろくなことはないと決まっているのである。

本当にどうしてこんな遠征をしたのか分からない。百済は既に新羅と唐の連合軍の前に亡びていたし、百済の残兵が抵抗を続けていると云っても内部で内輪もめが続いていた。新羅が連合を組んだ唐は王朝の一番勢いのある時期にあった。日本は遣唐使を派遣したばかりであり唐の国力と軍隊の強大ぶりはよ〜く知っていた。常識的に見てもう百済に勝ち目はないことは明らかだったのだ。

なのに斉明天皇(というより中大兄皇子)は、百済救済のために空前規模の遠征軍を派遣することを決める。全国から膨大な兵士が徴兵され、女帝自ら船に乗り込み西に向かう。天皇が戦争のために畿内を離れたことは神話を除いては日本史で前例がなかった。中大兄皇子、大海人皇子、額田王も従軍。

結果は惨敗。でも蘇我入鹿を暗殺しクーデターで政権を奪ったばかりの中大兄皇子は、このゴタゴタを利用し政権の正統性を確立することに成功。対外戦争やナショナリズムを政治に利用するのは、今も昔も同じ。毒餃子事件や捕鯨妨害問題も同じで、誰が一番得したかを考えれば、本質が読める。

2008年8月26日火曜日

ジムニーが届く!

昨晩ジムニーが届く。黒いランドベンチャー。保険を掛けてさっそく今朝から試運転。いいですよ。

いきなりオフロードはなんなので、今まで入ったことのない山中湖周辺の砂利道や林道を探検する。どんな道でも平気だし、狭い道で行き止まりになっても難なくUターン出来るし、これはいいですね〜。忍野村から林道を二十曲峠まで登った。

この辺では、これでようやく「一人前」の地域住民。「軽」でないと入り込めないところがたくさんあるのである。

「ジムニー・カントリー」万歳!

8/26 Today 吉田の火祭り

富士吉田市の観光情報 ふじよしだ観光振興サービス 吉田の火祭り: "8月26日、27日に行われる「鎮火大祭」は、「吉田の火祭り」と呼ばれ、北口本宮冨士浅間神社と諏訪神社の両社の秋祭りです。

 26日午後、本殿祭、諏訪神社祭が催行され、大神輿、御影は参拝者で賑わう氏子中に神幸。暮れ方に御旅所に奉安されると、時同じくして、高さ3メートルの筍形に結い上げられた大松明70余本、家毎に井桁に積まれた松明に一斉に点火されると、街中は火の海と化し、祭りは深夜まで賑わう。

26日浅間神社を発した大神輿と御影は氏子町内を一円し、27日午後7時頃に神社に帰ります。境内の高天原と呼ばれる所を見物客を従えて7廻りします。神輿と見物客とが一体になって、夕闇の境内を廻るさまは、まさに荘厳の一語につきます。"
とのこと。

一度見に行きたいが、まだその機会がない。交通規制が行われるし駐車場が少ないのでたいへん混雑するらしい。武田百合子〔武田泰淳の奥さま〕の『富士日記』では火祭りの晩の駐車場所をめぐる大喧嘩が描かれているが(どんどん畦道にクルマを駐めるので、出るに出られなくなると、邪魔なクルマは田圃に突き落とすみたい)あれ読んで恐れをなした。もっとも昭和40年代の話で今は違うのだろう。あの時代は確かに元気があったが、同時にとても野蛮な時代であった。武田百合子並みのエネルギーがないと生きて行けない時代でもあった。


武田百合子『富士日記』は良書。旦那の武田泰淳の作品より面白い:


2008年8月25日月曜日

8/25 Today チキンラーメンの発売(1958)

世界に冠たるニッポンの発明「チキンラーメン」が誕生した日である:


チキンラーメン - Wikipedia:1958年 日清食品創業者の安藤百福が終戦直後の大阪・梅田の闇市でラーメン屋台に並ぶ行列を見て、「もっと手軽にラーメンを」と、量産インスタントラーメンとして開発した。商業的に成功したのはこれが初めてであり、魔法のラーメンといわれた。チキンラーメンの開発は、安藤が大阪府池田市の自宅の敷地内に作業小屋を建て、試行錯誤の末に生まれた。ある日、安藤家の夕食の主菜だった天ぷらの調理法を見て受けた印象や食感をヒントに、「油の熱で乾かす」瞬間油熱乾燥法を思いつき採用した。

8月25日 - 販売開始。大阪・梅田の阪急百貨店うめだ本店で試食販売が行われた。これを記念して8月25日は「チキンラーメン誕生の日」とされている。チキンラーメンの発売により、それまでの「支那そば」「中華そば」にかわり、「ラーメン」という呼び名が全国的に広まった。
日清食品ではそれを記念して本日を「ラーメン記念日」とすることに決定。毎年全国で盛大な記念行事が執り行われる。ここ

それほどうまいものではないけれど、食べ慣れた味というのは恐ろしい。いまだに食べたくなる。

世界の「珍味」とか「グルメ」とか称するものは、要はこんなものだと思えば間違いがない。

2008年8月24日日曜日

8/24 Today 石川五右衛門が釜茹でにされる(1594)

石川五右衛門とは実在した人物だったらしい:
石川五右衛門と白波五人男、オノコロ交響曲:このところの健康ブームと関係でもあるのか、地方の家庭には最近まで残っていた「五右衛門風呂」が、今ちょっとした人気商品になっているのだとか。もちろん、その名前の由来は、あの石川五右衛門(いしかわ・ごえもん)さんからきています。お芝居の世界で有名になったことから、架空の人物だと思っている方も多いようですが、彼は安土・桃山時代を生きた実在の大泥棒で、同時代の公家・権中納言山科言経(やましな・ときつね,1533~1611)が残した日記『言経卿記』文禄三年(1594)八月二十四日の項に「庚牛、天晴」とあり、続けて、「盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎らる。同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり。」と記されているのが五右衛門の最期らしく、この「同類十九人」には実の子供と彼の母親も含まれていたようです。この時代でも珍しい極刑の執行を一目見ようと都の「貴賎」が川原に群がり集まったと言経は伝えていますが、子供の最期については巷説が幾つかあり、「 五右衛門が息絶えるまで、我が子を両手で抱え上げていた」とするものがある一方、「五右衛門は自分の子供を踏み台にして逃れようとした。 子供が苦しまないように即死させた。」と正反対の風聞も伝わっているような有様、ただ、この「貴賎」の一人であったに違いない行動派の言経も盗人の名前までは書き残してくれていないので、これが本当に五右衛門さんだったのかどうか、今となっては知りようがありません。その他の資料で五右衛門の存在を確かめようとすれば、半世紀余り後の寛永十九年(1642)に編集された『豊臣秀吉譜』という書物に、文禄の頃、石川五右衛門という盗賊が強盗、追剥、悪逆非道を働いたので「秀吉が京都所司代の前田玄以に逮捕させ、母親以下同類二十八人と共に三条川原で煎り殺した」とあるのを信用するしかありません。また、歴史の専門家によれば「言経卿記」そのものも、どういう訳か「歴史上の重大事件が起こったとされる日付の部分の殆どが欠損」しているらしく、その記述内容の信憑性を危ぶむ向きもあるそうです。まあ、信じるしかない、といった頼りなさはあるのですが、丁度、同じ頃、日本に滞在していた貿易商人アビラ・ヒロンの書いた書物にも「都を荒らしまわる盗賊団があり、其の中の15人の頭目が官憲に捕えられ、京都三条の川原で生きたまま煮られた」(『日本王国記』1656年著)という記述があり、当時イエズス会の京都修道院長だったペドロという人物が、これらの盗賊の首領の名前を「ixicava goyemon」だったと注釈しているそうなので、五右衛門の実在を疑う余地はないでしょう。
最後のスペイン語の表記だが、「し」の音が「xi」と表記されている。これは「shi」という音がスペイン語にはないため「x」を割り当てたもの。「Mexico」の表記も同じこと。

「煎り殺す」とか「生きたまま煮る」とか、ずいぶんと残酷な話だが、秀吉が特に残酷であったとも言えない。あの時代は世界中がそういう時代だったのである。20世紀になってそういうことはしなくなったのだが、時代は一方向に進むばかりではない。最近の「文明人」は、昔の人はあまり口にしなかったアワビの「地獄焼き」や鮮魚の「活き作り」を嬉々として召し上がっているし、生類憐れみの令を出した綱吉は「犬公方」と古くさいと馬鹿にされる始末。この意味では食生活の残酷化は昔以上に進展したとも言える。要は、時代の流れとして人は平和で温和しくなるのではなく、時代時代で「基準」が変化するだけの話なのである。

2008年8月23日土曜日

スズキ・ジムニーが欲しくなってきたことなど

山中湖は雨が降って急に寒くなり、長袖長ズボンでも寒い。そろそろ冬の準備にと考えているが、一番頭が痛いことは「雪の急坂」。うちの前の坂はスタッドレスでも滑るのだ。

なにせ半端じゃない急坂。せめて真っ直ぐな坂だとスキーのジャンプ台でも登ってしまうアウディなら問題はないのだが、狭いし、T字の角が連続しているし、おいらのカブリオレは軟弱なFF駆動と来ているので、チェーンを付けなければ滑る。チェーンはいちいち付けたり外すのがたいへん(下の道は除雪されるのでチェーンを付けたクルマはみんなの迷惑となるので坂を下りるとその都度外すし、家に帰ってくるとまた付ける)。クアトロに替えたいところだが、クアトロにはカブリオレがない。ソニーの出井会長は夏はTTカブリオレだが、冬は専用のTTクアトロ・クーペを使うとのこと(二台アウディを持ってられる)。おいらはそんなお金持ちではない。

いろいろ地元の人に相談したが、やっぱり冬専用のクルマが必要だとのことだ。しゅ〜ん。山中湖の冬には軽トラ(4WD)かジムニーがいいという。ただ圧雪がされない別荘地は軽トラックでは車高低すぎるのでつかえてしまうことがあるので、やっぱりジムニーかな〜、とのこと。ジムニーで登れない坂はランクルでもサファリでもダメだという。

冬期に灯油を6輪トラック(スタッドレス)で配達に来るガソリンスタンドのおっちゃんにも聞いてみた。ジムニーならこの坂はスタッドレスだけで登るはずが、運転技術次第だと。嫌味なおっちゃんだ。

ということで、河口湖のスズキでジムニーに試乗してみた。きれいなおねえさんが気持ちよく試乗OKを出してくれたのだ。河口湖畔の急坂を試してみたが、もちろんグイグイ登る。でも軽自動車だから山道はともかくアスファルトはチンタラするのだろうと思っていたら、驚き。これもすごいのです。ターボエンジンですごい加速。日本の自動車技術はすごい! ひょっとしたら日本で一番世界に誇れるクルマじゃないかしら。

YouTube で面白い映像を見つけたのでアップ。世界でもジムニーの評価は高いみたい:



散人は貧乏人なので、地元のみんなみたいにクルマにお金を遣うことが出来ない(軽自動車はとても高いのだ)。ジムニーは十年以上は優につかえるとのことで、掘り出し物(中古)を鋭意探求中。

それと、とっておきの情報。ニッポンでは「軽自動車」には税金がほとんどかからないのだ。おいらは毎年自動車税だけで年に一台数万円払っているが「軽」だと数千円で済む。軽自動車はエンジンの回転を上げるから普通自動車以上にガソリンを食う。地球環境には非常に悪いけれど、お上の地方優遇政策(なにせ地方では一家数台の自動車保有が当たり前なので「軽」が多い)のおかげで税金はほとんどタダ。税金は一円でも払うのはいやなので節約できるのはとてもいい。ニッポン・システムの逆手をとって、大いに得しよう。ニッポンではまともに真っ当な生き方をしておれば、損するばかり。

8/23 Today 白虎隊自刃 (1868)……「被害者」はそう簡単には忘れない



新政府軍に追いつめられた会津藩の白虎隊はこの日飯盛山にて自刃。会津での戦闘は酸鼻を極めた。会津ではいまだに攻撃をした山口県人を恨んでいる人が多い。日本人は淡泊で昔のことは根に持たないという話はウソである。

たとえば下のページ。他にもいっぱい同じようなページが見つかるので驚かされる:

会津の歴史(幕末) 高須&その後&恨み:"**会津の薩長(とくに長州)への恨み**

会津の長州に対する恨みは、明治天皇即位に始まります。 孝明天皇の御崩御(毒殺?)後、薩長が擁する明治天皇が即位すると、会津は、 ”朝敵”扱いとなりました。これが、恨みの始めです。

次ぎは、和平交渉には全く応じなかった事。

そして、戊辰・会津戦争です。老若男女を問わず殺し、”分捕り”と名付けて、農工商を問わず土蔵の財産を全て奪い、 市井人の妻娘を捕らえて妾にしたり、強姦したり・・。戦いの常とは言え、近代国家を謳う軍隊にしては、酷く、やりたい放題でした。これを見ていた人々は、薩長を恨み、長くこの話を伝えたものと、 思われます。
 
さらに、当時、殆ど不毛の地、斗南藩に流されて、辛酸をなめました。廃藩置県後も、薩長の政敵会津は、大正時代まで賊軍として、いわれなき差別を受けました。後述しますが、国立の高校・高専校も、 設置されませんでした。

薩摩には、西南の役で、少し仕返ししたので、やや、許せるものがあったとして、長州に対しては、長く恨み を持つ事になった訳です。

さらに、第二次世界大戦・太平洋戦争の時、仙台の師団長が山口県出身で、会津や九州の兵は、激戦地に回された。そのため、犠牲が多かったと、新たな長州への恨みの種を見つける古老も、まだ、会津には居ます。"

一方、山口県の人はどうかというとそんな昔のことはとっくに忘れてしまっている。加害者の方はすぐに忘れるのであるが、被害者となった方は、なかなか忘れて水に流すなどは出来ないのである。恨みを抱くことになる。

日本がむかし大陸や半島でやったことについても、同じことが言える。日本人からすれば「いつまで昔のことを根に持っているの。まだぐずぐずいって、ねちっこいな」というところだが、被害者側はそう簡単に忘れることが出来ないことは、会津の例を見れば分かる。

それはともかく、全国でいろいろ他にもこんな例があったので、明治政府はこういう地域・地域の恨みを「ナショナリズム」というイデオロギーで上手く一本化して「転進」させようとした。全国一律の愛国教育の実施や、西郷隆盛の征韓論や(これは時期尚早ということで却下となったががその後すぐ台湾に攻めていったりなんかした)日清戦争などなど。人間は単純だから大多数の人は騙されてすぐ忘れてしまい「一億総ナショナリスト」になってしまった。今も昔も「内政で躓いたら対外戦争を起こせ」というのは政治の定石なのである。

2008年8月22日金曜日

昨夜、暴風! ボートカバーがダメになっている

昨日の午後遅く雷。家の中にいたのでそれほどすごいとは思わなかったが、センターフィールドのブログを見るとなんかとんでもない暴風だったらしい:
21日 今日は - center-fieldの日記: "激しい雷と豪雨に巻き込まれ、しかも台風並みの風、おまけに1cm前後の雹も降る始末。桟橋に係留してる船のケアで、雷にビビリながら全身ずぶぬれ、もう最悪!あの時あがってればよかったです。センターフィールド前国道も川状態、足のくるぶし以上の水深になってました。"
さっそく今朝早くハーバーに降りてみると、驚き。

ハーバーの砂浜に大きな溝が出来ている(水はもうなかったが雨水が流れた川の後)。桟橋に係留してあるヨット(シカーラ)二艇ともセールが風でびりびりに千切れている。僕のボートが見あたらない。沈んでしまったのかと思ったら、陸揚げしてあった。雨水の浸水が激しかったので急遽陸上げしたとの由。ハッチの中にはけっこう水が。バッテリーとモーターには異常なし。

ボートカバーが古くなっており防水性能が劣化している。接触部分からの水漏れが激しい。出入りのキャンバス屋さんにボートカバーを頼むことにした。バスボートは突起物(コンソールやエンジン、エレキなど)が多いので洋服みたいにサイズを測ってテーラーメイドしなければならず注文服程度の値段となる。物いり。

2008年8月21日木曜日

あのホリエモンがブログ界に戻ってきている。:貞子ちゃんの連れ連れ日記 ……へ〜!

あのホリエモンがブログ界に戻ってきている。:貞子ちゃんの連れ連れ日記 - AOLダイアリー: "あのホリエモンがブログ界に戻ってきているので、ご報告。↓
「六本木で働いていた元社長のアメブロ」
http://ameblo.jp/takapon-jp/"


ブログのサブタイトルの「思ったことを素直に書きます。」というのが素直でいい。

『世界を動かしたユダヤ人100人』(マイケル・シャピロ)

わりかし面白かった。アインシュタイン、フロイト、ノイマン、キッシンジャー、リカード、マルクス、ディズレーリー、トロツキー、プルースト、カフカ、ベルグソンをはじめいろんな偉人の話が続く、もちろんモーゼやダビデ、イエスや聖パウロも「入っている」。正直「えっ?」と思うような人がユダヤ人だったりなんかする。勉強になりました。

世界を動かしたユダヤ人100人世界を動かしたユダヤ人100人
Michael Shapiro 大谷 堅志郎

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なぜユダヤ人に「偉人」が多いのか? 著者は説明はしていない。一神教の論理性の問題なら分派のキリスト教徒もイスラム教徒も同じ。DNAの問題なら今の中東の人は偉人だらけということになるしそうでもないだろう。やはりおかれた境遇だ。散人流に言うなら「彼らは常にナショナリズムのドツボから超越していたから」と言うことになる。傍目八目と言うではないか。「品格、品格」などと言って、自己満足的夜郎自大を続けていては、先が読めない。

この本索引がいい。章立てされている100人ばかりでなく、この本で引用された数多くの人名についても索引が整備されている。

2008年8月20日水曜日

8/20 Today トロツキーの暗殺(1940)……フリーダ・カーロとの不倫映像が残っている!

レフ・トロツキー - Wikipedia: "レフ・ダヴィドヴィチ・トロツキー(Лев Давидович Троцкий, Lev Davidovich Trotsky, 1879年10月26日(グレゴリオ暦11月7日) - 1940年8月21日)は、ソビエト連邦の革命家・政治家・思想家。赤軍の創設者のひとりとしてソビエト連邦の草創期に活躍したが、のちにスターリンと対立して追放され、亡命先のメキシコで暗殺された。(中略)メキシコ亡命中にフリーダ・カーロと不倫をしている。"
Wiki では8月21日死亡となっているが、ピッケルでの襲撃は20日に行われた(翌日病院で死亡)。

暗殺された場所はメキシコシティーの高級住宅地コヨアカンの自宅。一度見に行ったことがあるが、まるで要塞のような建造物である。敷地は高い城壁で囲まれ四隅には監視塔があり銃で武装した護衛兵が24時間見張っていた。壁の厚さは優に1メートル。中でもトロツキーの寝室は更に厚い壁で守られており、一つしかない小さな窓には鉄格子、寝室の入り口ドアも鉄格子だ。ベッドと机しかない粗末な牢獄のような小部屋。トロツキーは一日中ここで彼の著作を完成させるべく執筆を続けていた。完成するまでは死ねないとこんなことまでして頑張っていたのである。それでもスターリンの刺客は味方を装って中に入り込みトロツキーをアイスピックで殺す。


そんなトロツキーであったが、楽しいこともあった。メキシコの女性画家フリーダ・カーロとの恋愛お遊び。その貴重な映像が残っている。トロツキーは鼻の下を長くしてまるで「でれでれ」。フリーダ・カーロの方はなかなか一筋縄では行かない印象。年が違いすぎるもんね。でもフリーダ・カーロも、同じコヨアカンに住んでいたが、学生時代の交通事故で体中に鉄製のコルセットをはめ込んでの不自由な生活。お互いに惹かれるものがあったことは確からしい。


NHKの「新日曜美術館」から拝借。

2008年8月19日火曜日

山中湖:大池に温泉を掘っている!

下の40番ゲートの空き地で巨大建設工事がスタート。高い井戸掘り用の櫓が建てられた。一体何が出来るのだろうと気になっていたら、今朝の日経に広告が出ていた。JTTC(ジャパン・トータル・クラブ)の施設(山中湖畔サロンというもの)が出来るらしい。

JTTC のホームページを見ると:
株式会社 コーユーコーポレーション(コーユーグループ): "私たち「ジャパン・トータル・クラブ」は、個人のお客様を対象とした会員制のリゾートクラブを運営しています。メンバーご家族の世代を超えた思い出が共有出来る場として、変わらない良さを保つロケーションを厳選。最高のリゾート環境の中、個性溢れるクラブホテルと会員制ならではの暖かいおもてなしをご提供しています。現在、富士山が一望できる山中湖畔においては新たなクラブホテルを建築する一大プロジェクトを進行させています。"

とのこと。

なんでもイタリア人の設計による「イタリアン・クラシック」建築とのこと。ようわからんけど、屋内温水プールなどがあるらしい。温泉は掘ってみないと出るかどうかわからないので「温泉」とは書いていない(このへん正直)。外部者に開放されるんだったら、いいな。

この辺りは昔は大きな池があったところ(だから「大池」と言うらしい)。カッパが出たという伝説も、この辺りではないか。景色はいいところである。大池の湖岸:


8/19 Today ねづみ小僧次郎吉の処刑(1832)

とうとう鼠小僧は捕まって処刑されました:
鼠小僧 - Wikipedia
鼠小僧(ねずみこぞう。「ねずみ小僧」とも表記。寛政9年(1797年) - 天保3年8月19日(1832年9月13日))は江戸時代後期、化政時代に出没し大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯。本名、次郎吉(じろきち)。合わせて「鼠(ねずみ)小僧次郎吉」と称される事もある。本業は鳶職であったと言われ、義賊の伝承で有名な人物。

7年にもわたって武家屋敷71箇所、90回にわたって忍び込み、ついに天保3年(1832年)5月5日(日付については8日などの諸説あり)、日本橋浜町の松平宮内少輔屋敷で捕縛される。

北町奉行・榊原忠之の尋問に対し、盗んだ金銭の総額については3000両以上と鼠小僧は供述したが、本人が記憶していない部分もあり、諸書によっても違うので正確な金額は未だに不明である。

3ヵ月後の8月19日に市中引き回しの上での獄門の判決が下される。この刑は本来なら凶悪犯(放火や殺人)に適用される刑であり、この判決は武士階級の面子を潰された恨みの産物という見方も出来る。なお、市中引き回し時の鼠小僧は美しい着物を身に付け、薄化粧をして口紅まで注していたという。

処刑は小塚原刑場にて行われた。享年36。
まあ、無為徒食をしている連中(サムライ)から小判を分捕ったんだから、義賊だね。

一体いくら盗んだのか、諸説があり正確には分からない。一説には1万2000両とも言われる。現在価格でいくらぐらいだったのだろうか。拙者の考察:
鼠小僧次郎吉はいったいいくら盗んだ? 約10年間で100回、大名屋敷を専門に荒らし、盗んだ金額は合計で1万2000両とのこと。現在価格でいくらぐらいになるかであるが、女中さんの給料が年間で2.5両だったり、一人前の相撲取りが年間に十両稼ぐから「十両」と呼ばれた時代の話、たいへんな金額となる。給料水準比較から見た我々の実感ベースでは一両約20〜30万円程度。ということは、鼠小僧は目の子で30億円も盗んだことになる。3億円事件どころではないのである。10年間に渡り毎年3億円強奪を繰り返していた計算。たしかに並の泥棒ではない。
それにしても、昔の武家屋敷は不用心だった。銀行というものがなくみんなタンス預金をしていたのだから仕方がないのだが、もう少し頑丈な金庫を作るとか、一工夫あってもよかった。